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3代目三上正剛鮭への想い

1.三恒に入社するまでの生い立ち

昭和48年2月3日、大阪市福島区(中央市場のすぐ近く)で生まれました。現在39歳3児の父親です。
私は、小、中、高、大と野球とソフトボールに明け暮れる毎日でした。おかげ様で継続することの大事さ、団体行動の難しさ、大きな目標目指して全員で突っ走り、達成したときの喜びを学びました。 中学時代に野球の練習中に心臓発作で倒れ、入院した際、半年の命と宣告されました。
当時若いながら「生」と「死」について色々考える時間がございました。入院から1か月後、奇跡的に症状が何も無くなっていました。生きていること、息が出来る事、体を動かせることのありがたみを心の底より感じることが出来ました。それ以来人間なんていつ死ぬかわからない。明日死ぬかもわからない。だから、今を精一杯生きよう。常に前を向いて生きよう。そう考えるようになりました。退院する際、5人いるお医者様の中の4人のお医者様が今後、二度と運動してはいけませんという診断でしたが、一人のお医者様だけが「自己責任ではあるが、運動しても良い。」と言って下さいました。おかげ様で今でもスポーツなど体を目一杯使って動かすことができます。

大学卒業後、広告代理店に営業職として、就職しました。そこの会社の社長は、何でも任せてくれる方でしたので、経理、営業、企画、デザイン、制作、梱包、発送業務と何でもこなせるようになりました。
2年程勤めたころ、先代の父に呼び出され、いきなり「俺は、末期がんらしい。」「早ければ半年の命や。」と話だし、そして、「会社を手伝ってほしい。」と生まれて初めての父からお願いをされました。それまでは、「好きなようにやったらええ。そのかわりに絶対に何事 も途中でやめるな。」と言われていたので、あんな元気な親父がまさか!!野球でも、ボーリングでも、将棋、マージャンでも私は一度も勝ったことがないような強い強い父親でしたので、正直驚きを隠せませんでした。半年後勤めていた会社を辞めさせていただき、平成10年10月、三恒に入社しました。25歳の時でした。

私の経営者としての歩みと「鮭」への想い

入社当初のさんつねは、昔ながら中央市場でした。
朝一段落すると、社長は酒を飲みに寿司屋に行き、従業員は、ビールを飲んで、休憩といった感じでした。外部から来た私にとっては、カルチャーショックでした。そうは言ってはおれません。親父が生きている間に、親父から何か一つでも学ばなければという思いで、一心不乱に仕事に没頭しました。その時に出会ったのが「鮭」でした。
「鮭」を自分のモノにしようと思いました。なぜ「鮭」かと言いますと、まず私自身が「鮭」が大好物でした。特に小さい頃、親父が鮭のかま(へた)を持って帰ってきた時は、子供達みんなが取り合って食べ、何杯もごはんをおかわりしたのを今でも覚えています。そして「鮭」を嫌いな人はほとんどいないということ。つまり、値段の高い安いは別として、必ず売れる商材であるということが理由です。 「鮭」は、塩をすると時間と共に熟成し、旨みが増します。他の干物や丸干しなどの塩干品と違って、ロスが全くと言っていい位、無いということから、もともと臆病な性格で、石橋を叩いて歩くタイプの私と「鮭」は、相性がピッタリでした。
当時毎日毎日「鮭」を切っていましたので、「鮭」を切ることなら中央市場では、誰にも負けない自信がありました。
忘れもしない・・・平成13年9月16日父は急に容態が悪化し、帰らぬ人となりました。亡くなる前日まで、腫瘍のせいで、1年間止まることのなかった鼻血を出しながらでしたが、元気に仕事をしていたので、そんなすぐに容態が悪くなるなど、これっぽっちも考えておりませんでした。死ぬ間際まで、中央市場の未来を考えていた父の壮絶な生き様は、今でも尊敬しており、私の目標であり、自慢の父親です。

平成13年12月3日、先代の息子ということで、入社して3年の素人が代表に就任することになりました。翌年の1月、私の代表就任と同時にいろいろな問題が発覚し、解雇した従業員がおりました。その方から、解雇理由が不当だということで、弁護士を通じて、退職金を要求され、その退職金が払い終えた翌日に労働基準局にかけこまれ、労働基準局から時間外労働と深夜労働の手当てが不当だということで、呼び出され、その日より労働基準局と社労士との話し合いが続きました。その結果、従業員の過去2年間の不足の残業代と深夜手当を全員に支払うことになりました。おかげ様でしっかりした就業規則もできました。

しかし、その問題がようやく解決した頃、当時8名いた従業員のうち、5人が番頭さんを中心として退職し、そしてそのまま、同業者として独立しました。そしてライバル会社として対抗してきました。解雇した従業員と退職した従業員達は、独立するまで、全て計画的でした。入社3年ちょっとの私は、魚屋のことも世間のこともわかっていない若造でしたので、お客様は、信頼してくれる訳もなく、売り上げは、いきなりゼロに近い状態になりました。水産の業界関係の方の10人中9人は、三恒はつぶれると噂をし、その噂が回りまわって自分の耳に入ってくるという状態でした。しかしながら、私には、なぜか裏切られたという気持ちは一切湧いてきませんでした。あるのは、「この会社を絶対潰したくない。命に代えても潰したくないという。」強い思いだけでした。
しかし、最終的に残ったのは、以前わが社で勤めていた従業員で、心配して戻ってきてくれた人間一人を含め、従業員3名と事務員さん1名とパートさん数名という状態です。頭の中が真っ白になり、何を していいか、何から始めればいいか、只々途方に暮れていました。

私は、残ってくれた従業員や家族を守るためにできることはなにか。どうしたらお客様から仕事をいただくことができるか・・・。私達にできることは一つしかありませんでした。鮭を切ることです。売上がなくて、悩んだとき「鮭を切る事なら誰にも負けない」という自信がありました。
そこで従来なら鮭を販売するにあたっては、原料のまま納品しておりましたが、さんつねは、原料で納品する値段そのままの金 額で、お客様の要望にそって切身にして、納品しました。毎日、毎日、日々の業務を終了してから、残ってくれたメンバーと一緒に鮭を何千切れとカットしました。冷凍のカチカチの状態で切れば切るほど、色が綺麗で、切り身にいい線が出ます。こうすることによって、お客様先での商品の持ちが、一日違ってきます。綺麗なべっぴんさんの切身にすると良く売れます。冷凍状態で切れば切るほど鮮度が劣化しないので、もちろんおいしいです。

しかし、その結果、常に歯を食いしばって鮭を切るので、そのせいでとうとう奥歯がぼろぼろになってしまいました。いつもいつも包丁を力一杯握って切っていたので、けんしょう炎になってしまいました。朝の2時頃、出勤時間になって起きると、手が包丁を握った形になっていて、ギュツと握りしめた手をゆっくりと一本ずつ開いていくのが、朝起きて一発目の仕事でした。今でこそ笑い話ですが、その頃は夜に鮭の切る夢をよく見ました。最悪です。というのは、仕事中とそれが終わってからと更に寝ている間も鮭切りっぱなしの状態で、それはそれは、辛かったのを昨日のことのように覚えています。大好きだった鮭が、毎日毎日触りすぎて、食べられなくなった時期もございました。只々みんなでひたすら切り続けました。 気が付けばゼロだった売り上げが前年の半分まで、戻すことができました。私の原点は、ここにあります。ですから一人でも多くの方に、おいしい鮭を食べてもらいたい。助けてくれた鮭に恩返ししたいという気持ちと残ってくれた従業員と帰ってきてくれた従業員に感謝の気持ちで一杯です。その気持ちは、代表になって12年目の今になっても一度も変わってい ませんし、これからも変わることはありません。